おかげさまで

まともな精神健全な肉体を持っていたらばもうちょっと生産的な生き方ができたかもしれない。親がまっとうであっても子供がまっとうになるとは限らない。先日から寝ては起きてを繰り返し、排泄をしては食事をしてを繰り返し、木はただ影の連なりでできていると信じて絵を描き続けているけれども一体これに何の意味と重みと必要があるのか。繰り返し考えちゃいるけれど無意味だという答え以外に何がある?平和ぼけの象徴。怠惰の象徴。無駄の象徴。愚の骨頂。まっとうな人間であれば死にたくなるはずだ。必要とされる事への執着があまりにも無く、かと言ってあいつら程くだらなくないと自信を持ち、けれどもなにも生産しておらず。「27歳までには何者かになっていたい」と誰かが言うのを重く受け止めてはみたけれど、27歳なんてとうに過ぎている。であるのならば、今現在何者でもないわたしは一体何なのか?(A.糞以下だという事)絶望が死の病であるならば、絶望すらしない私は何の病気なのか?(A.病気なんて高等なものではない)それでも絵を描き続ける事に真実が隠されているのか?(A.真実を求めるならば絵を描くという方法自体が失敗だ)多分なにもない。暇だから描く。何も成し遂げてはいない事のいい訳として描く。お前とは違うんだという夢見がちな自意識。自己欺瞞であるならば、どこらへんが欺瞞で、では、真実は糞以下の自分か?明確な答えを握りしめた上で己を騙す、わたしはくだらなくなんかないし糞以下でもなくいずれ訪れる何かが幸福をもたらす。では、幸福とはなんだ?(A.自分以外の全て)望みはなんだ?(A.望みすらないから糞以下)記憶からの排除。自分の記憶も他人の持つ自分の記憶も排除。記憶から無くなる事はつまり、死であるらしいじゃないか。であるのならば、排除して空白に戻る。