そこが幸福な場所でありますように

ぼんやりしておきたい事柄があり、骸骨印をつけておくべき事柄でももしかしたら内容物が変化するかもと言ってぼんやりさせておく。だからやめた方がいいってと思っても後の祭りで八方塞がり。耳が痛い。もう本当に耳が痛い。わたしは考えがなさ過ぎたのかもしれない。これぞ悪と思える「理解した」という事を思ったのかもしれない。


「もっと」という言葉をしばしば使ってしまうなとたった今思う。もっとどうしたら...こうしたら...できたはず。もっとなど過ぎ去ってしまった事柄に使うべきでないと、過去の事をほじくり返すなんて、まぁ下品きわまりないわなどと思うべきだわ、感じるべきだわ、パブロフの犬のように、ほじくる→下品に直結されるまで繰り返し繰り返し思いなさい。と思って、いまだ過去をほじくる下品きわまりない行為への近道が開通されていない。「もっと」と言って酷く恥じる。恥じ入る。穴があったら入りたい。でも井戸だと水がしみちゃって嫌って未練がましい事よと思う。


己を肯定したいしたいと願い、繰り返し行動を生活を性質を環境を肯定してみてしつくすのに後どれだけ必要なのだろうと終らない事にストレスを感じるけれども、こうなったら神に存在してもらって安易に解決していただこうと、しかし都合良く思っては負けだと、神にまた一端消えていただいて、肯定を繰り返す。しかしもう面倒くさくなってしまって、危うく否定してしまいたくなるけれども、否定された己は殺されるべきであるから回答としては単純だけれど、おいそれと勢いがつかない。


死ぬ事と生きる事が等価であるならば、生きづらいという人間が死の向こうにみる景色をわたしは見る事ができないから、死ぬも生きるも同じであって、問題の解決がどこにも見当たらない。どうしたものか?


個人というものがわたしにはない。ないから、誰かの思考の一端を担うのみの存在であるに違いないと思う事はわたしが日々生活しなくてはいけない上で大変に支えになる考えであった。わたしが選択する必要はないのだ。わたしはただ、何も知らないフリをしてわたしが決めた事だと思い込んで、何もかもがわたしの手中にあるに違いないと思い込んで暮らしたらいい。