愛について語るときに我々の語ること

悪いのはどの部分か?という事を考えると、他人と暮らすからいけないと、私の選択がいけなかったと、そういう事になり、それじゃ独りで生活も時間も完結出来る状況を作ったらいいじゃないという事になり、面倒な事とは全部手を切ったらいいんだという事になる。実際、出来ない事ないじゃない。
「殺さなくてもいい理由があったじゃない」って科白は意外にも心に残っていて、散々迷惑かけられた妻が夫に殺されるという状況なのだけれども。妻が夫を殺すんじゃなくて、夫が妻をなんだよね。夫は殺すに至るのだけれど、殺そうと思う理由より殺さなくていい理由、愉しかったり嬉しかったり良かったりした時間だとか想い出かな?があったでしょと妻が叫ぶの。これは大人計画の「イケニエの人」って舞台の科白で、舞台上は突拍子もない具合になっているので火曜サスペンス的なアレではないの。で、その科白を良く思い出す。怒らなくってもいいじゃない、だって愉しい事もあるじゃない。人を嫌わなくてもいいじゃない。いい所もあるじゃない。けれども、私は大抵夫の側になってしまう。ちなみに、妻は宮藤官九郎で、夫は阿部サダヲだった。蛇足だけれど。
昨晩は夕食時であったのだけれど、食事中に怒り怒りが発散しないまま黙々と食べ、「怒るのをもうやめよう」と言われる。別の状況でも度々ある「怒るのはもうやめよう。愉しくしよう」とよく言われる。そうしたら、怒りはどこへやったらいいのだろう?怒りを消化しようとしちゃいけないのだろうか?怒った人間は感じ悪いだろう。そりゃそうだ。けれど、なんで怒っちゃいけないのだろう?なぜそこで、無理矢理楽しくしなくてはいけないのだろう?と、非常に疑問に思うのだけれど。大抵の人は怒って食事するより楽しい方がいいだろうから、間違った事を言われているのではないのは分かる。それじゃ、いつ怒っていいのだろうか?
相手がいる事で怒りがわくのであって、1人でいて怒る事はあまりない。食事が不味かったら今度はなんとかしようと思えばいいし、何もかも嫌になったら静かに眠ってしまえばいい。なんか、面倒臭い。

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

帰ったらこれ読もうとふと思う