睡眠過多の為

「幸せか」と聞かれて「幸せだ」と言うのは馬鹿みたいだと思う。面白味がないというか真実みがないというか。かといって、不幸せかと言われたら別にそうでもないのだけれども、生活をしていくのに一々幸せかどうかを考えるのは面倒くさいというもっともな結論に辿り着く。

死に様について考えていて、私の根性なしな、面倒くさがりな性格では自然死若しくは餓死しかあり得ないだろうと思う。傷は痛いし、薬飲むのは苦手だし、落ちるのは好きじゃないし、息苦しいのも嫌だし、何もしなくてゆっくり時間をかけて死にゆくには餓死かしらと思う。
身体を動かす事が億劫になる時があって目玉だけはぐるぐると動くのだけれど、力が全く入らないような気になって、このままでも悪くないかもしれないと思って諦めて目を瞑る。
わたしは生きる事を同居人に頼っている。助けられていると言ってもいい。精神的に依存しているのでも、金銭的に依存しているのでもない。こう言っちゃなんだけれども、人の心などという曖昧な物は解らなくて当然で、少しも信用していないし、依存する程他人に興味を持てない。それは割と興味ある同居人でさえ、親でさえ、友人でさえそうなのだから仕方ない。では何に助けられているかと言えば、単に存在に助けられている。毎日帰ってくるし、顔を合わせるしかないし、だから私が何もせずにただ転がっている事はできない、よって、わたしは生きている。

しかし、それ以前もわたしは生きていたのだから何かしら生きる要素はあったはずなのだけれども、忘れっぽいので忘れてしまった。ただ、わたしの描く絵がつまらなくなったのは独りではないからで、いつか同居人がいなくなったら恐らく素晴らしい絵が描けるに違いないと、心待ちにしている。