過度の期待

4日間ほど鳥取へ行ってきた。絵本制作を始めた頃から「砂漠へ行きたい」と思っていてそれが去年だか一昨年だかの話しであるので、ようやく行けたという事になる。鳥取砂丘なので砂漠ではないのであるけれど、砂の地平線が見える位には広い場所であろうと勝手に思い込み、けれどもそんなに広くないという前情報を貰ってもいたのだけれど、想像以上に狭く想像以上に緑々しく、丘だものね…と思いはしてもアメリカとかアフリカとかエジプトとか行かなきゃ駄目かしらとも思う。けれども、丘を越えたら海であり熱い砂に足を埋めて歩くのは中々に愉しいものではあった。歩いている時は、もう嫌って思っていたけれど。砂漠で遭難したらさっさと諦める事にしようとも思ったけれど。砂丘の端っこの方まで行ってはみたものの帰ってくるのが本当に嫌になったけれども。タノシカッタデス…



「帰る」という言葉を旅に出ると使うのだけれども。旅から戻るという意味で。それは旅でなくとも実家についても同じで、けれども「実家に帰る」のか「家に帰る」のかがこのところ曖昧だ。先月実家に帰った。帰ってみたら、もう実家は私の居場所ではなかった。居場所がないのではない。家じゃないのだ。私のいるところでないと言ったらいいのか?そうして、京都へ帰ってきた。ここは現在の生活拠点であるけれど、家として違和感を覚える。気を許し切れていない気持ちになる。そして鳥取から京都へ帰るとやはり京都が家である。家であるけれど、まだ街に慣れていない。まだまだ旅行の延長であるような気持ちになる。むしろ、全く馴染みのない秩父の山の中だとか砂丘に座り込んで眺める海だとかで妙に安心する。ここには慣れる必要がないと思うからかもしれない。動物の死体が腐っていて、虫がたかっていて、悪臭がして、知った虫が鳴いていて、知らない虫も鳴いていて、突然草が動いて、汗がだらだら垂れる。


葬列が向こうからそのもっと向こうへ流れているような気がしていた。